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女性の恋愛は男性のそれと非対称? 

Masaoさんの「純粋なココロ2.0」

恋人選びは『好意』ではなく『セックス』で決まる。ゆえにすべての恋愛論は、『愛情論』ではなく『欲望論』である。



というエントリーを拝見した。真に正しい。

かいつまんで言ってしまうと女性の「恋愛」とは「妊娠のリスク」を高める可能性があるので男性のそれと同等ではないという主張。よって「愛せよ、されば愛されん」は「男性→女性」という図式では成り立たないこともあるのではないかとおっしゃっていた。

女性にとって「好意はあるけど、セックスはしたくない異性(=友達)」と「好意があり、セックスもしたい異性(=恋人)」の間には、マリアナ海溝よりも深い溝がよこたわっているということです。



もっと極端にいうと男性は妊娠のリスクがないために女性は常に「恋愛」対象であるのに対して、女性は男性を「恋愛」の対象なのかそうじゃないのかを線引きする必要がある、ということなのかな。そういう意味では女性は真っ当に生きていくためにも強(したた)かさが必要なのかもしれない。

ただ「好意があり、セックスもしたい異性(=恋人)」という定義は「当人」のセックスもしたいという欲望から純粋に導かれるのか、イマイチ不明。恐らくそんな単純な理由だけではないのでは。

このエントリーを見て、少し前に流行った養老孟司著「バカの壁」の冒頭で確か養老さんが生徒に「妊娠中絶」のビデオを見せてそのレポートを集めたところ女性と男性の感想に明らかな「差異」があったことを発見し、それを切欠(きっかけ)に人間には越えられない「バカの壁」がある、と主張していたことを改めて思い出した。

何にせよ人は「手段」であって「目的そのもの」ではないってことか。

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ポパーの反証可能性 

いきなり気が重いけど・・・

ポパーの反証可能性 

「仮説(法則)」から導出された帰結を観察データと照らし合わせる際に、たまたま得られたデータと帰結とが一致したからといって、そのことは法則が正しいことを論理的には意味しない。論理的に許容されるのは、法則からの帰結データと食い違うときに「法則は正しくない」との判断を下すことのみである。つまり、法則は「反証」されることはできても、それが真であることをポジティブに示すことはできない」

佐和隆光著 「夢と禁欲」、pp.74-75。




 どうも社会科学研究者の中にはこの「反証可能性」を反故にして自分は「神」にでもなった様な人がいる。マキャベリの偉大なところは反証可能性を告白し、それを克服しようとはしなかったところって佐々木毅先生も書いてなかったっけ。
 あ、じゃファウストからお気に入りを引いておく。

「天上への途(みち)はとざされている。
眩しそうに上を見て雲の上に自分に似たものがあるなどと空想するのは馬鹿者のすることだ」

ゲーテ著「ファウスト(ニ)」、高橋義孝訳(新潮文庫)、p.443。


 
 「人間は、どんな瞬間にも満足してはいられない」(同上)から天を見上げてそこに人の影を見る。「いつか自分もああなれたらなぁ」と思いながら。だけど人間は神様にはなれない。だからこそ「反証可能性」を宣言して、自分は「神」ではないと「人間宣言」しなきゃならない。じゃないとプラトン以降連綿として続いてきた過去2000年の「イデアを巡る旅」を繰り返すだけじゃないか。

ウィキペ<反証可能性>

ここの説明もわかりやすい。

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